転売ヤーの存在意義

自分は、悪にも存在意義があると思っている。

この世に無駄な物は無くて、悪でも何らかの役割や理由を持っているからだ。

 

仏教では人が避けられない4つの苦しみがあるとされる。生、老、病、死だ。

生は置いといても、老や病や死は概ね「避けられるなら避けたい」共通の悪として良いだろう。

古代からの文明が最もコスパ悪くお金を浪費してきたことが「老病死を避けること」だからだ。(現行の日本政府が、老病死を避けるための医療費で財政を潰しているように。)

 

では、老いた人間(例えば更年期を過ぎた女性)がいなくなったらどうだろう?

人間社会は、生殖に基づく関係を基調とするとても生臭いものになるのではないか?

病んだ人間がいなくなれば、身体の制限から解放された精神の増長を妨げるものがなくなる。礼儀というものの意味がなくなるだろう。

死ぬ人間がいなければ、当然人類はホモサピエンスまで進化しなかった。

 

そのように、全ての悪は存在意義があると思う。ただ視点によって「悪」とされているだけだし、文明の力学によってその役割は認識されるはずだ。

 

例えば無数のヒトを殺してきたウイルスが、同時に人のDNAに侵入し、進化を促してきたように。

プログラムのバグを突いてシステムを破壊するコンピュータウイルス(ランサムウェア)が、美しく機能的なプログラムへの「要件定義」を促したように。

 

どのような悪にも、それが悪とされる対象にたいて、より遠い視点から見れば、何かしらの意義がある。その渦中にいる人がそれを認めるのは苦痛であるはずだけれど。

 

そして本題は、「転売ヤーの存在意義とは何か?」ということだ。同様に何かがあるはずだ。

 

一応、転売ヤーと商人の違いを説明すると、「水源を止めるかどうか」だ。

川がない村の人に工夫して楽に(=安く)水を運ぶのが商人、川がある村の水源を止めて困った村人達に高く水を渡すのが転売ヤーだ。

前者は有難いし、後者は消えた方が良い。

 

ちなみに、「供給源を操作する」という意味では、独占禁止法に触れるような大企業その他も転売ヤー的な悪性を持つ。これは社会生物にとって根源的な問題なのかもしれない。

 

でも、話はこれからだ。

そんなゴミみたいな存在、転売ヤーにも、何かしらの意義があるはずだ。色々考えていこう。

 

例えば、「そもそもなぜ大事な村の水源を止められるのか」という疑問がある。

大事な水源なら、それを転売ヤー"ごとき"に止められない工夫があるべきだ。無いのは怠慢だ。

考えられる理由としては例えば、

・水の価値を理解していない(論外)

・村の外の人を全員無害認定している(過度の家畜化)

・守り方を知らない(低い文明力)

・守る余裕がない(弱体化)

・仲間割れなどで、守る意思の統一を図れない(分裂)

がある。

 

それを踏まえて、転売ヤーを撲滅した後の村はどうなっているかというと、

・水(環境資源)の理解と管理ができる

→高度な科学技術と、成熟した社会秩序

を有し

→村の内外との関係交渉が円滑に行えるスマートな

村になっているはずだ。まるで「自然と調和した完璧な個人」を投影したかのような共同生命体に進化しているということだ。

 

そう、転売ヤーが存在するのは「世界の成り立ち(→資源の活用)」について村が不勉強だからであり、また村として機能不全に陥っているか、あるいは「外の悪を信用してしまう(→悪を増長させる余地を持つ)」からである。

 

そして転売ヤーを克服した村は、「世界と自身らへの過不足ない感謝と深い理解」を有しているとてもタフな村になっているはずだ。

 

転売ヤーが生まれる村は、どの道滅びる定めなのだ。とすれば、転売ヤーによって物流危機が未然に防がれているという面もあるだろう。

ありがとう、転売ヤー。早く消えられると良いね。

 

発想の貧困(解決編)

結論から言うと、前回の「効率化〜」的な考えは間違いである。

 

というより、その考えは存在しない。なぜなら、人が実際に何かを(するべくして)するとき、「考え」だけでは動けないからだ。その「考え」で動くことを「納得」している必要があるからだ。

 

よって「考え」だけで人が動けると思っている時点で、それは「意識的な最適解」でもなんでもなく、ただの強迫観念である。

 

そういうことを言いたかった。なぜ電池を戻したくないかとか、なぜ発想の貧困が起きるかとか、それはどうでもいい。

 

心と世界は複雑なのだ。

発想の貧困(疑問編)

僕の目の前には今、単二電池がある。

充電式で何度でも使えるPanasonicのもの。

 

なぜかというと、さっき使ったから。詳細に言うと、僕は数時間前まで(もう数時間も経ったのか!)VRゲームをプレイしていて、

その途中に右手のコントローラーの電池が切れたので、部屋の壁掛け時計のからそれを拝借したのだ。

 

よって本来なら目の前にある単二電池は右手コントローラーから取り出したものなはずだけど、それは充電したのち戻したので、今、目の前にあるのは元通りの壁時計の電池だ。(過程は実は違うのだけれど、結果は元の電池と元の時計だ。)

 

話はここから始まる。なぜかというと、僕はこの電池を壁の時計に戻したくないのだ。「明らかにさっさと元通りにするべき」なのにも関わらず。「論理的な人生関数の日常雑事の範囲において考えにくい値が出ている」ということだ。

 

そしてこれは、現代の利益社会人の普遍的な命題関連する問題に帰納すると思う。すなわち、「なんとなく嫌」なことを「意識的、合理的、効率的な善性」によって否定できるか?(否定してしまいがち)というものだ。

 

だからこの話は電池である必要はなくて、「やらないといけない(と認識している)タスク」を「やりたくない」状況ならなんでも良い。

 

そう、何でも良いのだ。この電池に大した意味はなく、自分はさっさと人生関数の最適化を延々とする毎日に戻ればいい。悩む必要も、誰も見てないブログに書く必要もない。

 

本当に?

 

 

「コミュニケーションコスト」とは何なのか?

まず、ChatGPTに聞いてみる。車輪の再発明を手軽に避けるための定石だ。

コミュコストとは

今回自分がフォーカスを当てたいのはラストだ。「相手とのやり取りがスムーズでない場合、意思疎通に余計なリソースがかかる」という部分。つまり、「ノーコストで以心伝心だったら楽なのにな~」ということです。強いて問題提起するなら、「全ての人間間のコミュニケーションコストを減らすにはどうしたらいいか」ということかな。

実際、長年の友達であったり、同じような境遇であったり、あるいは不思議な縁で、「通じ合える」人というのは居る。情報伝達に時間や労力、認知的な負担がかからなくて、自然と思っていることが伝わりあう人。もちろん、逆も然り。

また、より多くの人と通じ合える人がいれば、世の誰とも通じ合えなさそうな人もいる。優劣ではなくね。能力主義的個人観から言えば「コミュ力」にも繋がりそうなこの「コミュニケーションコスト」。

では、本題に。
そもそもなぜ情報伝達が難しいかと言ったら、人によって「前提となる知識や社会的状況」が異なり、また「同じ表現(言葉)を聞いて解釈する意味」が異なり、また「理解してほしいことと知られたくないこと」があり、「理解したいことと知りたくないこと」があるから、ではないでしょうか?つまり、
①根本的に情報処理体系が異なることによる問題
②人に意思があり、(未知のも含めて)情報を制御しようとする問題
の2種類があるということです。
後者は更に複雑な問題なので、①に絞ってみます。つまり、根本的になぜ分かり合えない状況に人々はあるのか。ということ。

続きはまた今度!

現役JKが考える、普通でないことはいけないこと?

よく言う、「普通〇〇だよね」ってフレーズあるじゃないですか。その場の正しさを決めてしまうフレーズ。

 

それで、逆に、「変」ってだけで、間違ってるというか、否定されなくても、無視されてしまうことって多いと思うんです。

 

これを単純な図式に当てはめたら、「普通=正しい」で、「変=悪い」ってことになっちゃうじゃないですか。冷静に考えたらおかしくないですか?

 

でも感覚では自分自身、納得するところもあって。だって変な発言って分かりづらくてイライラするし、普通な方が安心します。なんというか、普通な方が「美しい」感じがするんですよね。変って汚いというか。(この文章が綺麗でありますように( ´∀`)。)

 

考えたら頭がこんがらがってきちゃったからまた今度!!(すみません、、、)

 

 

「自分の頭で考える」とはどういうことだ

巷でしばしば言われたり言われなかったりする「自分の頭で考える」というフレーズはどういうことなんでしょう。例えば偉人の名言や、仕事や勉強が出来る人や、仲間内でリーダー格の人、あるいはSNSを活用して売れてる(勉強はできなさそうな)キャバ嬢とか、、、とにかく独自に何らかの成果、アウトプットを出してる人に、「自分の頭で考える」という言葉は似合う気がします。

頭とはつまり脳ということだと思いますが、別に、誰だって脳は常に使っている訳です。イーロンマスクのNeuralinkでもなければ他人の脳を直接的に使える人は居ないはずですから、もちろん皆、自分の脳で考えています。だから、この言葉には逐語的ではない意味や文脈がありそうです。

自分がまず思ったのは、これはカッコいい言葉で、明確な成果を出している人の為の言葉だということです。共感してもらえるかな。「下手の長考休むに似たり」という言葉がありますが、将棋が下手な人だって一生懸命考えていることも有る訳です。たまたまその人が藤井聡太さんではないから、それを「考えている」と認めてもらえないだけで。何の成果も出していないように見える哲学者も、哲学者になった時点で成果は出しているから「考える人」になるだけで、そこら辺の人がウンウン唸って色々考えてもトイレを我慢しているだけの人になってしまいます。(・・・①:成果主義
また、周囲の承認が必要です。(・・・②:社会的行為)

次に思ったのは、オリジナリティが必要なんじゃないか、ということです。つまり、どんなに頭を使って考えようと、他の皆も同様に頭を使って考えて同じような言動に繋がったら、「自分の頭で考える」人にはなりません。1+1は明白に2な訳ですが、例え幼稚でも根拠をもって1+1=1と答えたエジソンは、「自分の頭で考えた」人で、天才数学少年が厳密な検証をもって1+1=2と答えても、条件反射の子供と変わりません。(・・・③:独自性)

じゃあそのオリジナリティはどこから来るかと言ったら、環境です。ヒトそのものも環境の一部としてしまえば、環境が違うから周囲と異なる結果を出した訳です。原理的にはですが。(・・・④:異端の環境)

他に気になることといえば、この言葉が気に障る、ということな気がします。「自分の頭で考える」人以外は脳みそが溶けているような物言いですし、「意識が高い」ように感じてしまいます。気にしすぎかもしれませんが。むしろそういった心理的配慮ができていない時点で「考えていない」のでは、と思ってしまいます。でも周囲への心理的配慮をしていたら同調圧力に吞まれてオリジナリティは出ないかもしれません。(・・・⑤:意識の差別化)


あと、これは完全に推測(というか邪推)かもしれませんが、、、成功者が成功の秘訣を良い感じにはぐらかす為に使っているような気がします。あくどい過去を隠すために、特別な思想があったように振る舞う、みたいな。あと、新人教育を面倒がるブラック企業でもよく聞きますね。。。

以上、①~⑤をもってまとめると、「元々異端の環境に居て周囲と異なる結果を出した人が、その異端性を誤魔化すためにアウトプットを優れた思考様式の産物とし、その思想をウイルスのように周囲に広げていく」ということなような気がします。なんか情報商材屋が広がっていくのに似ている気がします。

読んでくれてありがとうございました。

より切実なトロッコ問題

ロッコ問題は知っていますか?

ネットでは有名な哲学のトピックで、見知らぬ5人と1人の命を天秤にかけるものです。

 

でも今日書きたいのはもっと具体的で、主体的で、複雑なトロッコ問題です。自分が先ほど彼女に話した例に従って隕石問題としておきます。

 

法学的には、緊急避難や不作為と言った考え方が関わってくると思います。考え方によっては未必の故意も関わってくるかもしれません。

 

自分にとっては人の一生においてこの問題は「常に」人に問われていると思うのですが、考えすぎと思う人には本当に無縁な問題なのだと思います。世の大抵のことは人によって違います。

 

引っ張って申し訳ないのですが、その「隕石問題」について紹介する前に、トロッコ問題が、なぜ広く知られたテーマとなっているのか、ということについて私なりの考えを書いておきます。

というのも、これらの正解のない哲学的な問いは因果の筋道をつけるのが困難なので、話としてまとめる為に落とし所が必要だと思うからです。

ロッコ問題の存在理由と対比することで、隕石問題の存在理由を明かす助けになると良いと思います。

 

さて、トロッコ問題とは言ってしまえば「究極的な命の選択」の問題な訳ですが、ここで大事なのはその特性です。つまり、

・(トロッコ作業員という)業務上の問題

・見知らぬ5人と見知らぬ1人の命の問題

・答えの出ない哲学にも関わらず、早急な答えを求める問題

・その回答は主に、「内面的思想、外面的体裁、行動の主体性、責任問題、生命の重さ、生命の重さの判断権」のバランスで語られる

ということです。

つまり、この問いは、「現代社会で、(雇われとして)働いているときに他人の生命を左右しうる状況になったらどうしたら良いか」というもしもに答える為にあると考えます。

常に生命の選択を迫られる医師や大勢の暮らしに影響する政治家や経営者等の「高度にプロフェッショナルな故に命の扱い方すら方法論が確立されている職業」ではなく、「普段は他人の生命を扱うことがない職業」なのに、事故で他人の命を突然預けられたらどうしたら良いかという問いです。正解はありません。

 

前置きが長くてすみません。ここまででも読む価値があったら良いのですが。。

ここまでを踏まえた上で隕石問題が何かというと、「互いに向き合ってる知り合いのAさんとBさんがいて、Bさんの頭上からBさんに小さな隕石が落ちてきたのにAさんが気づいたとき、Aさんはどうするべきか?」ということです。

2人は緩やかなコミュニケーション中であり、Aさんが叫べばBさんは何らかのリアクションをとる時間がありますが、数秒で隕石は落下するので確実に避けられる保証はありません。Bさんは自然に上の隕石に気づく様子はありませんが、隕石は充分小さく必ずBさんに当たる保証はありません。

 

どうですか?少しイメージして貰えれば良いと思います。AさんとBさんの親密度は問題ではなく、「ある程度の身内感と親近感を互いに有し、また周囲もそれを知っている」関係ならば何でも大丈夫です。Aさんが身を呈して助けるかという問題ではなく、同様の影響を声掛けで与えることができるとします。

 

その場合、トロッコ問題との相違点は以下の通りになります。

・プライベートな空間

・相手に対して影響を与えることができる

・相手の内面を知っている

・隕石のため、確実な行為と結果の論理関係がない

いうことです。また、共通点は、

・自身の選択が他人の命に影響を与える

・放置することもできる

・判断を早急にする必要がある

・判断の具体的な理由を(裁判等の)公の場で釈明する必要はない

ということです。

つまり隕石問題とは、「プライベートで一般的でなく、故に相手の外面性と内面性を生命の天秤にかける」トロッコ問題です。

一般道徳的な価値の量の判断をする必要はなく、天秤の両側には相手の命があります。

 

さて、どうしますか?