自由意志の悪魔

哲学が生み出した究極の概念で、現実社会に最も影響を与えているもの、それは自由意志だ。

自由意志の悪魔、日本上陸。数万名死亡。

 

日本では、法の下様々な自由が設定されている。

でも、その自由を満喫できる人間は少ない。

 

他人からの監視意識。(これが最も大きいと思う)

文脈のよく分からない金。普通の人間を特別にしてしまう権力。無言の威圧感。ルールを無視する政治家。

他にも、単調な毎日や、決まりきった展開、実体感を得られないスマホの操作、踊らされる必要のないと分かりきってるテレビやネットのニュース。

みたいに報酬系を固定化する外からの刺激。

 

こういったものに溢れてる中、

現代人が、日々の自分の行動を「これが自分の意志(意思)だ」と納得するのはちょっと難しい。

 

もちろんそれぞれ理由はあって、皆んなが自由を互いに制限し合ってることで生まれる幸せがある。日本の治安は世界一!

自由でいると脳が重たくなるし、不自由に耐え抜いた者だけが得られる真実がある。(本当にそう思う)

一見不合理な行動に見えても、実際には様々な心のメカニズムが働いた結果の最適解だった、というのはよくありそう。

結局全ての世界線を計算することはできないし、だったら人事を尽くして天命を待つ。勝った者が強いのだ。Done is better than perfect.

 

そうやって幾重の知恵の檻で囲って得られた安寧を、一瞬で吹き飛ばしてしまう概念、それが自由意志だ。

 

学生時代に、「それは本当に君の意志か?」とか聞いてくる意地の悪いクラスメイト、いませんでしたか?(半々くらいかな)

自分はそう言われると、それが自分の意志ではないように感じ、稚拙な行動だったように感じた。体調の悪い時は、自分とは何か?について考え込みそうになった。

結局人間は、集団に流され組織に従い偉い人に命令されていた方が幸せなことの方が圧倒的に多いのに。なんで脱サラしてしまったんだ。社会が信用していたのは俺の肩書きだ。これからはフリーターの時代だって言ってたのに、、、。

 

さっきまで天国のような安寧の中にいたのに、一瞬で宇宙の暗闇のように虚無になってしまう。「これは私の自由意志か?」

 

「変なプライドさえ持たなければ、頭脳を武器だと思わなければ、人生大成功だったのに、、、。社会に貢献できたのに、、、。」という人は、数えきれないほどいると思う。(こういうのって避けられないのかな)

 

文明的な賢い人は、この問題をせめて言語的に処理する為に、最近では「最適解」というワードを使いがち。でも最適解を考えることが最適解だったかを大脳皮質は永遠に判別できない。

 

もちろん逆に自由意志という概念がもたらす幸せもある。「これはあの人に誘導されているだけで、自分の意志ではないな。」みたいに。

 

こうやって常識の天と地をひっくり返してくから、人類は宇宙に到達できたのかもしれない。

 

でも個人の日常行動でそんなことを考えていたら精神を病んでしまうので、こういう中身の無い事を延々と言っている人からは距離を取るのが最適解なのかもしれない。

 

あーあ、今宿題やろうと思ってたのにな〜〜ママに言われてやる気なくした〜〜。ボクの自由意志、奪わないでよね。

 

強い人間はある程度自由に振る舞える。

だから逆説的に、無理に自由に振る舞って強いフリをすることができる。そして大抵はしっぺ返しを喰らう。仮に上手く行ったなら元々強かったのだ、ということになる。(まあ現代、結局実家の太さで大体決まりがち・・・(?))

 

結局、自由意志とは何か?自分は権力だと思う。

自分のテリトリーを調整するのが世の中で1番大事。鶏口牛後。井の中で好き勝手やろう。美味しいヤミー感謝感謝。

成仏してクレメンス

日本のインターネット界隈の有名な決まり文句の一つに、「成仏してクレメンス」というのがある。

 

インターネットには、様々な人がいる。多くは身元も分からない匿名同士が、リアルとは違う人格で生きている。そしてその中には、たまにあの世からの死者も紛れ込んでいるのだ。

 

例えば、YouTubeで、悲惨な事件の動画が流れている。すると、コメント欄に、「これめっちゃ痛かったです。」のような、死んでいる筈の当該者のような者が現れるのだ。

 

もちろん彼らの多くは不謹慎な悪ふざけなはずだ。しかし万が一、相手が本当にネットを彷徨う亡霊だったときのために、冗談半分で、「成仏してクレメンス」と言うのだ。

 

Life is Peace!!!

天才は障害者になれるか?

精神科の心理テストで「天才:IQ132以上」と「障害者:ADHDASD」の2つの条件を満たしている自分の、中学の頃の話。後悔と愚痴。

 

(なぜ私立受験をしなかったのとよく聞かれたけど)フツーの市立中学に通っていた。

2個上まで荒れてた(タバコ、窓ガラス等)けど、自分達は平和で穏やかな方だったと思う。

「ひまわり学級」的な障害者用の支援学級も各学年にあって、「E組」と呼ばれていた。(暗殺教室みたいだなと思っていた、他意はない)

そして普通の部活とは別に、E組の人達が集まって行う部活があった。単純にクラブと呼ぶ。

 

1年生の入学後の部活説明会で、クラブの活動内容は、ハイキングから工作(自分達で筏を作る的な)まで色々あって、普通の部活より楽しそうだった。全校生徒に紹介する手前、「E組以外の人は入りません」的なニュアンスの注意案内を暗に言っていたのかもしれないが、自分はASD(建前が分からない)かつADHD(細かい話を聞けない)なのでわからない。

 

というか1年生の時は、クラブには入らなかった。男は運動部でないといけないと思っていたので。社会通念。強迫観念。無念。
周囲もそうだったのでクラブのことはすぐ忘れた。中学生は忙しい。

その後何回か定期テストを受けて、(公立中学の中では)自分が絶対的に勉強ができることを知った。順位は出なかったけど、周囲の噂的には割と学年1位だったと思う。

そして多くのASDのように、物事を腑に落ちるまで考えないと気が済まなかったから、すべてを理論で完璧に説明できる数学が好きだった。理数系の才能があることは感覚的に分かっていたと思う。

そして多くのADHDのように、上下関係やルールで縛られる部活が苦痛だった。今考えると運動部にしては割と自由だったけど。スポーツは勝たないと意味がないけど、誰かに指図された通りにやっても楽しくない。

他にも塾でゲームを作ってるやつとかもいて、自由にプログラミングや電子工作をしたいと思った。(他に理数系の才能だけですぐ実際的に役に立つものが思いつかなかった)授業妨害装置とか作りたかった。

そんな時に2年生になって、E組のクラブの説明をもう一度見た。(なぜ?)
普通の生徒の堅苦しい秩序から離れて、自由に活動しているクラブに今度こそ入りたいと思った。兼部も自由なはずだった。なので説明会のあと、顧問の先生に話をしに行った。すごく優しそうな先生だったけど、やんわりと断られているのは分かった。君が思っているような部活ではない的なことを言われた気がする。別に電子工作やプログラミングを求めていた訳ではないんだけど。気楽にワイワイ自由にやりたかっただけなんだけど。

その後新しい担任の教師に呼ばれて、色々聞かれた。今考えると、自分がE組をからかっているのか確かめようとしていたのかもしれない。自分は教師達にもなぜか色々有名だった。(多分授業の誤りを指摘するのが大好きだったからだろうけど)
「どうして入ろうと思ったんだ?」的なことを色んな角度から訊かれて、
「工作やハイキングが楽しそうだったから」というのを涙目になりながら毎回答えた。本当だもの。自分は理由が分からなくてもよく涙目になった。なんで怒られているんだろう?
でも教師には、罪悪感の涙目に見えたのかもしれない。

今なら、ボランティア精神の欠片もないような生徒が障害者用の部活に入るのは危険だって感覚がわかる。
推測でしかないけど、もしそれが無駄に成績優秀な生徒だったら、勉強とかのストレスを晴らすために鈍い生徒をからかおうとしてる可能性を、虐めを許さない教師だったら考える。逆にもし優等生が障害者と仲良くしていたら、勉強ができること自体の権威がなくなることを恐れたのかもしれない。学級崩壊は、教師の最も恐れることの1つらしいから。でも自分は障害者だった。

公立中学校の教師は、色んな家庭の子供を見る。暴走族から医者の息子まで。だから、「成績が良い=人間的に賢い」って図式から逃げられないかもしれない。実際そうあるべきなんだろう。自分はそうじゃなかったけど。
自分には教師の授業内容への理解不足が手に取るように分かったし、クラスのノリが難しすぎた。E組の生徒と話している方が心が通じているように感じた。多分一方通行だったんだろうけど。

よく教師に、「お前本当は分かってるんじゃないだろうな」とか「分かってないフリをしているの?」って怒られた。何をだよ。人の心?本当に分からない場合、何と答えれば良いのだろう(もちろん何と返答しても教師は怒るので、説教の流れに任せていた。)

今でも理屈はわかるけど、納得はできない。障害者が障害者用の部活に入って何が悪いんだろう?
(その答えは明確で、公立中学は猿を収容する監獄で、自由意思をもった人間を許してはいけないから。教師は秩序さえ守れれば自分が何を教えているかなどどうでも良いから。その秩序を作るための成績システムが茶番であるから。学校内の全ての健常者は、障害者より学習指導要領を理解できなかったから。)

来世は私立受験をするべきだろうか?障害者学級に入れてもらおうか?一人で授業妨害装置を作るか?教師らの授業内容への理解不足を彼らの人格否定に繋げるべきだろうか?彼らが生徒に毎時しているように、あるいは。

結局、整形は女性を幸せにするの・・・?(前回からは閑話)

どうも、ゆーたろーです。。。(^^)/

 

冬なのに暖かくて過ごしやすいですね。。。そのせいかディズニーがお正月終わっても

激混みでした。。。汗(教え子と行ったのですが、、、やっぱり子供は待つのが苦手ですね。。。大変でした(笑)🎠

 

生成してみたイメージ。技術の進歩を感じます。。。
湖畔のシンデレラ城も素敵ですね(笑)

 

 

今日は、この間の記事でちらっと触れたらコメントで反響が大きかった、

 

「整形すると人は幸せになれるのか」って疑問について、ゆーたろーの思うイメージを、、、

 

 

多少の科学的なデータも使って語ろうと思います・・・!!( `ー´)ノ

 

 

 

ネットでよく見る画像。悪意ありますよね(笑)この方にも失礼です。
そもそも日本人と白人の人は基準が違います。

 

 

※(注意⚠)あくまで、ゆーたろーは理系なだけの「一般人」です。。。

 

 

整形外科のお医者さんでも、社会学や心理学の専門家でもなくて、

 

X(旧Twitter)やyoutubeなどで情報を収集しているインフルエンサーでもありません。。。

 

職業柄、女の子の悩みをよく聞くことはありますが、、、整形の話題が出ても深く聞い

 

たりはしないです。。。

 

 

なので、専門の知識だったり、女性の立場からみた整形についての考え方であったり、

あるいは、そもそも「幸せ」についても。。。

 

今の時代、幸せの形も人それぞれです。

 

 

完全に、「シロウト」です。にわかです。なので、あくまで、

 

「客観的かつ中立で、深い知見のない、一般の意見」

 

として、見てほしいです。。。

 

(※ただ、最近は10代の子達もSNS等で加工された美しい顔を見ることが多いので、美

醜の感覚だったり、メンタルが心配であったりはします。。。)

 

 

前置き終わり!!長かった!(笑)

 

 

それでは、本題に入ります。。。先に結論から言うと、

 

「目的意識があるかないか」で、明確に違います。

 

というのが、ゆーたろーの考えです。

 

つまり、「なんとなく、見た目が不安だからする」のはダメ・・・*1

 

詳しく説明していきます。

 

よく見る顔を、人は細かく判別できるようになる。。。
本人からしたら家族の顔は全然違いますが、
他人から見たら似てる!!ってことありますよね。

 

と、思ったのですが、、、話が長くなりそうなので、続きはまた今度です。。。

 

 

ここまで読んでくれた人、ゴメンナサイ(-_-;) 


いつもの読者のみんなは、許してください・・・( *´艸`)

 


ただ、話題がセンシティブなので、思っていた以上に伝え方を丁寧にする必要がありま

した。。。自分も、もう少し確かなことを調べてからじっくり書くべきだと思いました。。。反省。

 

 

 

「こういう視点から、整形と幸せについて調べてほしい!」という希望があったら、コ

メント欄で教えてください、、、!

 

 

※今のところ、つづきは

 

・整形の種類(どこを変えるか)

・初めて整形外科にかかる年齢(学生かどうか)

・施術費用と収入(また、幼少期の実家の裕福さ)

・現在の職種

・都市部か、郊外かと家族構成

・一時的なものか、恒久的なものか

・新しく知り合う人や、旧来からの知人から見た時のバレやすさ

・ケアが必要かどうか、副反応の大きさ、日常の制限

 


と言った観点から、韓国と米国の研究データで説明していく予定です。。。

 

気になる視点があったら、是非コメントで教えてください!気になるコメントや、リア

クションの多いポイントは、ゆーたろーの方でも再度詳しく調べてみます('◇')ゞ


 

 

気象庁によると、どうやらまだ寒くなるらしいので、皆さま、特に雪国の方々、心身共

にお気を付けて!☃

 

そう言えばもうすぐバレンタインデー🎁ですね。。。学生の頃はもう意識してた時期だったかな。。。

 

 

 

それではまた!!

 

 

*1:+_+

「鬱への恐怖」は「鬱そのもの」より悪質

「鬱になる恐怖」に駆られて動く多くの現代人について(自分含む)

お金持ちへの憧れ、SNSでの承認欲求(と呼ばれているもの)、学歴への信仰、スポーツの虚飾、経験人数へのカウント、暴力性への魅惑、歴史の可能性への思慕、他人への嫉妬、ロジックへの幻想、社会階級制への回帰

宇宙に行ける人間と行けない人間

 

元ネタは、名探偵コナンの赤井さんの

「The fear of death is worse than the death itself」

(死の恐怖は死そのものより人を悩ます)

イケメン

 

「The fear of death」までGoogle検索バーにいれたら、他にも多くの格言が出てきた

「The fear of death is the most unjustified of all fears, for there's no risk of accident for someone who's dead」(死の恐怖は、最も過大評価されている。人は死んだら全てチャラなので(※恐らくもっと論理的で明快な意味がある))ーアインシュタイン

「The fear of death follows from the fear of life. A man who lives fully is prepared to die at any time.」(死の恐怖は生きることの恐怖から生まれる。よく生きる人は、いつでも死ぬことに抵抗がない)ーマークトウェイン(トムソーヤ、ハックルベリーフィンの作者)

 

死の恐怖は人類にとって永遠のテーマ。

俺は死の恐怖から一生無縁でいられる人なんて想像できない。

あのホリエモンだって、死ぬのが怖くて生きてるって言ってた。

ただ、タイトルの通り、今の日本で死の恐怖は普段感じない。どん底でも生活保護さえあれば生きてられる。病気や事故は大体他人事。その代わりに「鬱への恐怖」が多くの日本人を動かしている。

鬱への恐怖は扱えない。真面目に生きていればならないというものではない。むしろ真面目な人ほどなる。つまり、精神論でコントロールできるものではない。(まあ最近はウイルス説あるけど、それだってどうせ同じこと)

死の正体はわかる。モノの欠乏だ。食べ物飲み物衣服住居生き方居場所街・・・今の日本では、金がなくても中々死なない。
じゃあ、なんで俺たちの思考は、行動はこんなに不自由なんだろう。どうせ死なないのに、なんで余裕がないのだろう。(「精神の欠乏」みたいな答えは出さないから安心してほしい)

その謎は、「鬱への恐怖」が一番説明できると思う。
そう、みんな鬱になるのが怖いのだ。みんな鬱と紙一重で生きているのだ。誰だって平等に。どんなにイケイケでも、社会に虐められれば鬱になるのだ。だから前澤勇作は謎にお金を配り始め、youtuberはファンを食い散らかし、ひろゆきはメディア出演をするのだ。

 

「モノへの欠乏への恐怖」が「お金」を作って文明を豊かにしたように、

人は今度は「鬱という何かへの恐怖」を求めて、「実際要らんやろw」というほど、「コミュ力愛嬌顔体力運動力知力評価人脈社会経験恋愛経験インスタ映え金青春ドラマチックな人生太い家・・・」を求め完全性をアピールしたり、アンチテーゼとして「ミニマリスト皮肉哲学陰謀論その他」「私真実わかってますよ」的な考え方をして新しい「鬱から遠い価値」を作り出す。

 

それによってbeにおいては「美しい」「健康」「社会的地位がある」・・・を求め、doにおいては「ダラダラしない」「他人と積極的に関わる」「己を強化する」「心の余裕を常に保つ」「他人に好かれる」・・・を過剰に求める(そのアンチテーゼも含めて)

そしてその費用対効果を果てなく追及し、不自由な思考言動の檻に閉じ込められている。なぜならその檻から出ようとする試みも檻の一部であるという恐怖から逃げられないから。檻から出ても同じ事なら、檻の中でベストを尽くそう。

 

ちなみに俺たちが普段「SNSでの承認欲求」と呼ぶものは、実は承認欲求ではないらしい。人は遺伝レベルで「関わる人全てに嫌われていたくない、好かれていたい」という原始的な安全欲求があって、いいねは一時的にその欲求を満たしてくれるだけ。

多くの人のツイートを見ると、それだけ人は潜在的な不安を抱える。ツイッターのタイムラインを一分スクロールすれば、500年前の庶民の一生分の人間を認識することになる。本能の恐怖は計り知れない。誰に毒を盛られるか分からない。

 

まあ結局、欠乏への恐怖で人は不自由になる、みたいな話なんだけど、鬱の正体が欠乏なのかは分からない。あるいは、欠乏への恐怖が鬱で、俺たちは欠乏への恐怖を恐怖しているのかもしれない。だから足りない頭と体で過剰にたしかなものを求めてしまうのかもしれない。それを悪とは今の日本ではできない。

 

「自分は鬱に縁がない人間です」という虚勢は、諸刃の剣。

 

過剰な恐怖、可能性という檻、自由という不自由への対処方法は、みんな生まれた時から知っているはずだ。俺はバナナが食べたいよ。カリウムが腎臓を破壊しても。

 

「現代人みんなそう」みたいな書き方をしてしまったけど、実際そうでもないよね。そう考えること自体も良識の欠乏だね。すぐに屈するのは卑怯だね。


P.S.
beとdoの例えは、実際には主体と客体とか、意識と無意識とか、積極的と消極的とか、色んなパラメータがあると思うので、テキトーです。