「鬱への恐怖」は「鬱そのもの」より悪質

「鬱になる恐怖」に駆られて動く多くの現代人について(自分含む)

お金持ちへの憧れ、SNSでの承認欲求(と呼ばれているもの)、学歴への信仰、スポーツの虚飾、経験人数へのカウント、暴力性への魅惑、歴史の可能性への思慕、他人への嫉妬、ロジックへの幻想、社会階級制への回帰

宇宙に行ける人間と行けない人間

 

元ネタは、名探偵コナンの赤井さんの

「The fear of death is worse than the death itself」

(死の恐怖は死そのものより人を悩ます)

イケメン

 

「The fear of death」までGoogle検索バーにいれたら、他にも多くの格言が出てきた

「The fear of death is the most unjustified of all fears, for there's no risk of accident for someone who's dead」(死の恐怖は、最も過大評価されている。人は死んだら全てチャラなので(※恐らくもっと論理的で明快な意味がある))ーアインシュタイン

「The fear of death follows from the fear of life. A man who lives fully is prepared to die at any time.」(死の恐怖は生きることの恐怖から生まれる。よく生きる人は、いつでも死ぬことに抵抗がない)ーマークトウェイン(トムソーヤ、ハックルベリーフィンの作者)

 

死の恐怖は人類にとって永遠のテーマ。

俺は死の恐怖から一生無縁でいられる人なんて想像できない。

あのホリエモンだって、死ぬのが怖くて生きてるって言ってた。

ただ、タイトルの通り、今の日本で死の恐怖は普段感じない。どん底でも生活保護さえあれば生きてられる。病気や事故は大体他人事。その代わりに「鬱への恐怖」が多くの日本人を動かしている。

鬱への恐怖は扱えない。真面目に生きていればならないというものではない。むしろ真面目な人ほどなる。つまり、精神論でコントロールできるものではない。(まあ最近はウイルス説あるけど、それだってどうせ同じこと)

死の正体はわかる。モノの欠乏だ。食べ物飲み物衣服住居生き方居場所街・・・今の日本では、金がなくても中々死なない。
じゃあ、なんで俺たちの思考は、行動はこんなに不自由なんだろう。どうせ死なないのに、なんで余裕がないのだろう。(「精神の欠乏」みたいな答えは出さないから安心してほしい)

その謎は、「鬱への恐怖」が一番説明できると思う。
そう、みんな鬱になるのが怖いのだ。みんな鬱と紙一重で生きているのだ。誰だって平等に。どんなにイケイケでも、社会に虐められれば鬱になるのだ。だから前澤勇作は謎にお金を配り始め、youtuberはファンを食い散らかし、ひろゆきはメディア出演をするのだ。

 

「モノへの欠乏への恐怖」が「お金」を作って文明を豊かにしたように、

人は今度は「鬱という何かへの恐怖」を求めて、「実際要らんやろw」というほど、「コミュ力愛嬌顔体力運動力知力評価人脈社会経験恋愛経験インスタ映え金青春ドラマチックな人生太い家・・・」を求め完全性をアピールしたり、アンチテーゼとして「ミニマリスト皮肉哲学陰謀論その他」「私真実わかってますよ」的な考え方をして新しい「鬱から遠い価値」を作り出す。

 

それによってbeにおいては「美しい」「健康」「社会的地位がある」・・・を求め、doにおいては「ダラダラしない」「他人と積極的に関わる」「己を強化する」「心の余裕を常に保つ」「他人に好かれる」・・・を過剰に求める(そのアンチテーゼも含めて)

そしてその費用対効果を果てなく追及し、不自由な思考言動の檻に閉じ込められている。なぜならその檻から出ようとする試みも檻の一部であるという恐怖から逃げられないから。檻から出ても同じ事なら、檻の中でベストを尽くそう。

 

ちなみに俺たちが普段「SNSでの承認欲求」と呼ぶものは、実は承認欲求ではないらしい。人は遺伝レベルで「関わる人全てに嫌われていたくない、好かれていたい」という原始的な安全欲求があって、いいねは一時的にその欲求を満たしてくれるだけ。

多くの人のツイートを見ると、それだけ人は潜在的な不安を抱える。ツイッターのタイムラインを一分スクロールすれば、500年前の庶民の一生分の人間を認識することになる。本能の恐怖は計り知れない。誰に毒を盛られるか分からない。

 

まあ結局、欠乏への恐怖で人は不自由になる、みたいな話なんだけど、鬱の正体が欠乏なのかは分からない。あるいは、欠乏への恐怖が鬱で、俺たちは欠乏への恐怖を恐怖しているのかもしれない。だから足りない頭と体で過剰にたしかなものを求めてしまうのかもしれない。それを悪とは今の日本ではできない。

 

「自分は鬱に縁がない人間です」という虚勢は、諸刃の剣。

 

過剰な恐怖、可能性という檻、自由という不自由への対処方法は、みんな生まれた時から知っているはずだ。俺はバナナが食べたいよ。カリウムが腎臓を破壊しても。

 

「現代人みんなそう」みたいな書き方をしてしまったけど、実際そうでもないよね。そう考えること自体も良識の欠乏だね。すぐに屈するのは卑怯だね。


P.S.
beとdoの例えは、実際には主体と客体とか、意識と無意識とか、積極的と消極的とか、色んなパラメータがあると思うので、テキトーです。